帰って来ました

8月の後半、徳島県での2週間の生活が終わりました。

水も空気も食べ物も、殆ど気にしなくても良い生活は、子どもにとっても、勿論私にとっ

ても、精神的にも肉体的にも大変解放されたものでした。

正直・・・、松戸でも生活に子どもを戻すことに、抵抗がありました。これからまた放射

線を心配する日々が始まるのです。


子どもたちは吉野川で沢山遊びました。まあ、宿題もしました。

お世話になった古い友人夫婦が、本当はとても忙しいのに、一泊のキャンプに連れて行っ

てくれて、川に入って鮎を沢山見たり、川海老やハゼの仲間を獲って、一口ずつ食べまし

た。本当に楽しい時間だった!

プチ避難に行ったはずなのに、かえって贅沢な日々になり・・・。


8月27日の昼のフェリーに乗り、翌28日の早朝、東京港に着きました。

往路が、小さな車でずーっと下道を走ったため、とてもとてもくたびれてしまったので、

復路は若干高いけれど、フェリーで帰ろうということになりました。

夫がフェリーの時間を1時間間違えて、「間に合うか!?」とヒヤヒヤでしたが、滑り込み

セーフ。

長い時間の船旅なので、トビウオが飛ぶのを見よう、とか、夜は星が見えるかもね、とか

期待は最高に膨らんでいたのですが・・・妙に船が揺れる。

な、なんと。

台風が来ているとやらで「これから更に揺れが酷くなると予想されます」とのアナウンス。

始めは船の先端に行き、船が砕く波を見たりして喜んでいましたが、段々揺れが大きくな

り始め、子どもたちは直ぐに「気持ち悪い」と言い出し。

慌てて売店で酔い止めを購入し、みんなで飲み、あとは殆ど部屋で寝てばかり・・・。

トビウオを見たのは私たち夫婦だけで、結局子どもたちは何も見ることが出来ず、でした。


あ〜、こんなんだったら道路で地道に運転すれば良かったかしら。


徳島県人のパワー〜

14・15・16日の3日間、夕方から夜にかけて「池田の阿波踊り」

が行われました。

何というか、とにかく圧倒的なパワーには只ただビックリ。

よくまあ、あれだけのエネルギーがあるものです。

夜だけじゃなくて、昼間もご祝儀をもらった相手の会社や家へ行って、

お礼踊りをしていました。

みんな本当に楽しそう。観ているこちらもつい楽しい気分になります。


「この阿波踊りのために一年間生きていると言っても過言ではない」

・・・と土地の人が教えてくれました。・・・スゴすぎる。


阿波踊りの特徴の、中腰で踊る姿勢は訓練していなければキツいもの

でしょうし、頭に傘を付けている女性が爪先立ちで踊り続けているの

に、履いている下駄の細い刃がどうして折れないのかが不思議でした。

材質は何なのかしら。


それから、語弊がありますが・・・徳島にはヤンキーが多いです!

阿波踊りをしている人たちも、ヤンキーが多いですね〜。文句あっか!?

てな感じですかね?

ここ徳島では、私のようなドンクサイ女はモテそうにありませんねー。


え?モテたときもあったのか?ですって??


プチ避難に来ています

11日の夕方、夫から電話があり「徳島行き決まったぞ。いつでも出発出来るように

準備しておいてくれ」といきなり言われました。

以前から「子どもたちを放射能の心配が無いところへ連れて行って、体を休ませたい」

と言ってはいましたが、何せ色々と入り用で、今年は我が家にそんな余裕は無いので、

私の中では正直諦めていました。


徳島県の吉野川上流に、ラフティングの会社を経営している私たちの昔の仲間がいる

のですが、私たちのことを仲介した仲間から事情を聞いた彼は、このお盆の超多忙な

中、池田町内に半月の滞在でも部屋を貸していただける不動産屋さんを当たってくれ

たのです。本当に感謝、感謝です。


私たち夫婦の昔の仲間である彼について、私は実は余り詳しく知りません。ミーティ

ングなどで見かけたことはありました。なんでもカヌーイストの野田知佑さんと日本

中の川をカヌーで下り、「日本の川地図」という本を出版した人だということです。

趣味が高じて仕事になった人です。そして、彼の会社にはそういう人ばかりが働いて

います。日本の夏は川下りのインストラクター・サポートをして暮らし、秋の終わり

頃には、例えばオーストラリアに渡り、あちらの川で同じように暮らす。

・・・およそ常識には囚われない生き方です。


今私たちは小さなマンションの5階にいます。クーラーが無いので、日中は暑いです

が、子どもたちは図書館に行き、宿題をしています。私は仲間の会社で雑用を手伝っ

て過ごしています。

川下りをしたお客様が着ていたウェットスーツやパーカーをを洗って干したり、乾い

たものをたたんで仕舞ったり。炎天下で、毎日100人ほどのものを洗って干す、少

し厳しい仕事ですが、恩返しのつもりで頑張っています。


水も空気も気にしないで過ごせるこの環境は、私にとっては精神的に安まります。子

どもたちは、放射線を浴びずに済んでいるというだけで細胞は修復されているはずで

す。しかも、川で遊べる環境が目の前にあるなんて、本当に良い時間を貰いました。


野菜と卵は、地野菜が沢山売られており、安心して食べることが出来るのが本当に有

難いです。ただ、乳製品と肉の購入に気を使うのは松戸と一緒です。


放射能の恐怖が”今のところ”無い地域で、意識が高まるのが難しいのは、住んでみて

初めて理解が出来ました。でも、伊方原子力発電所はこの先167kmくらいの距離

にありますし、もしここで大地震が起こったら、また同じ悲劇が繰り返されるかもし

れないのです。


8月15日は終戦記念部でしたが、その数日前はヒロシマとナガサキの原爆の日でし

た。二つの原子爆弾の投下によって、一瞬で数万人の人が命を落としています。

唯一の被爆国である日本は、もう一度「核」について再検証する必要が絶対にある。

私はそう感じています。


最後に、陰ながら努力して、私と子どもたちを避難させてくれた夫に心からありがとう。


お祭りの在り方。

昨日と一昨日、矢切駅前では「第17回 ビール祭り」が開催されました。

毎年、この地域のお店や有志の団体が出展し、生ビールを始め様々なおつま

みが並び、どこからともなく人々が涌いてきて、駅前広場はびっしりの人た

ちで埋まります。カメラを忘れて、写真がありませんが・・・。

価格は大体300円が中心で、串に刺したキュウリなどは100円ほどで求

められます。生ビールは300円ですが、買い求める人の列に並んで、10

分はかかります(涙)。


さて。

実は、今日の話はゴミの話です。

毎年ビール祭りの後に、会場の片付けを手伝っています。

そのゴミの量ときたら。

それに、何故か満杯に入ったままのビールのコップがそのまま置きっぱなし

になっていたり、ゴミ箱に捨てずに植え込みにゴミを並べて置いてあったり。

うーん・・・毎年本当に考えさせられてしまいます。

お客様ですから、有り難いことには違いないのですが、このお祭りの在り方、

何とかならないものでしょうか。


ちなみに高校生ボランティアの男の子達に感想を聞いてみました。

「えー・・・まあ。ビール呑んでて酔っぱらってるから仕方ないかもしれな

いけど・・・ちょっと、ねえ。」

彼らも一生懸命ゴミを集めていました。きっと感じるところはあったんじゃ

ないかと思います。


この問題は、大人の在り方です。

もちろんお客様ですから感謝すべきですが、モラルの問題は別だと思います。

「節度ある行動」。

近頃私たち大人は、忘れがちだと思いませんか?



おんなたちの戦争

8月と言えば終戦記念日ですね。
まあ、最近の若い人には全く縁のないことになったかしら。
でも、やはり私は忘れたくないのです。祖母が闘った戦争を・・・。
(この記事は、以前のブログの再投稿です。)
7月28日は、母の母の、つまり私の祖母の命日でした。
祖母と言えば、恰幅が良く肝っ玉、絵が上手、着物を着ていた、好きな歌は
「浜辺のうた」、怒ると怖い、母と仲が良くない。
子どもの頃はそんな印象でしたが、自分が大人になって、母に祖母の話を聞
くうちに、より祖母を理解したいと思うようになりました。特に戦争を生き
抜いた話は、私の心を捉えました。
祖母は大正三年(1913年)、埼玉県吉川町の貧しい小作農家の家に生ま
れました。
結婚はおそらく20歳の頃。東京都江戸川区北小岩の理容店に嫁ぎました。
「農家以外の人なら誰でも良かった」と話していたそうです。
祖母が結婚して8年目、祖父が戦争に取られ、大陸で捕虜になり、シベリア
に抑留されました。働き手を失ったのですから、舅と姑・子ども三人を抱え、
その苦労は本当に大変だっただろうと想像できますが、しかし当時としては、
そんな境遇は珍しくなかったのかもしれません。
戦中は母が小さかったためか、母の記憶は戦後間もなくからの話が殆どです。
戦後小岩辺りにもいわゆる「赤線」があって、黒人の兵隊が当時”パンパン”と
呼ばれていた売春女性を買いに来ていたそうです。
祖母は生活を支えるため、やっとのことで手に入れたお米を炊き、薄い刺身を
のせてお寿司らしきものを作り、早朝に赤線の宿屋を訪ね、受付の見張りのお
ばさんに袖の下を渡して中に入れてもらい、一部屋一部屋「お寿司要りません
か?」と売り歩きます。
すると中からパンパンのお姉ちゃんが出て来て「お腹空いたわ。お寿司買って
頂戴な。」とねだったりして、結構買ってくれたそうです。
あとで祖母は「お寿司より私を買ってよ!」と、本当は心の中で叫んでいたよ
・・・と、母に打ち明けたそうです。
母はその頃6歳か7歳。白いお米で作ったお寿司を見ていると生唾が出て止ま
らなくて、喉から手が出るほど食べたかったねえ・・・と話していました。
その他にも、ある時大通りに爆弾が落とされたことがあり、とっさに祖母は記
録を残そうと思いつき、爆弾の落ちた穴のスケッチをしていたら、憲兵に「ス
パイ容疑」でつかまり、一晩帰宅できなかったことなども聞いたことがありま
す。
さて、シベリアに抑留されていた祖父が還って来たのは昭和26年(1951
年)。その「シベリア帰り」は、共産主義に洗脳されているとされていました。
玄関前に共産党の人が「お帰りなさい」と握手を求めて大勢来たそうです。普
通なら追い払うところだと思いますが、祖母は「お父さんの帰りを喜んでくれ
る人がいる」と、一口ずつ赤飯を配ってお礼をしたそうです。
でも、それからは近所中の差別に合い、子どもだった母はいじめられて随分つ
らい思いをしたようです。
大通りの向こう側からと子供たちが差別的な言葉を叫んだり、お客さんがぱっ
たり来なくなったり・・・。
子供だった母にはどうしていじめられるのか、よく分からなかったかもしれま
せん。
一方祖父は、不在だった8年の間に、家族の中の居場所が無くなり、孤独だっ
たようです。母は子供心にも、親しみを感じないけれど、ぽつんとしている父
をかわいそうに感じていた、と言います。帰国して15年、祖父は私が1歳の
時、脳溢血で亡くなりました。
祖母は50歳の頃、好きで出来なかった絵「俳画(色紙に俳句と挿絵を描く)」
を習い始めます。
勉強家で賢い人だったのでしょう。たった3年で俳画の先生になったそうです。
更に日本画も勉強して、数枚の絵を遺してくれました。
祖母の乳癌の快気祝いに家族で行った、静岡の宿の周りの茶畑に雨が降った様
子を「茶畑の どこまでつづく こぬか雨」と詠んだ俳句を記憶しています。
母と祖母が、色々あって数年間行き来が無かった間に、祖母は癌が再発してい
ました。
「もう永くない」と連絡を受けて、お見舞いに行きました。逞しかった祖母が、
驚くほど小さく弱々しくなっていて、胸が詰まりました。泣くまいと頑張って
も頑張っても、溢れる涙を抑えることが出来ませんでした。
それから間もなく、祖母は亡くなりました。
戦中戦後、多くの女性が同じような苦労を抱えて生きていたでしょう。まさに
「生き抜いた」と言えます。
祖母は母に言ったそうです。
「これだけは覚えておけ。これから先、どんなことがあっても戦争だけは反対
するんだぞ」
今の私には、到底足もとにも及ばない真の強さ。
時代がそうさせたことは間違いないのですが、話を聞くにつれ、心の奥深いと
ころが震えるのを感じます。
確かに過去のこと。でもそこから学ぶことは限りない気がします。


(2008年7月29日 記)