おんなたちの戦争

8月と言えば終戦記念日ですね。
まあ、最近の若い人には全く縁のないことになったかしら。
でも、やはり私は忘れたくないのです。祖母が闘った戦争を・・・。
(この記事は、以前のブログの再投稿です。)
7月28日は、母の母の、つまり私の祖母の命日でした。
祖母と言えば、恰幅が良く肝っ玉、絵が上手、着物を着ていた、好きな歌は
「浜辺のうた」、怒ると怖い、母と仲が良くない。
子どもの頃はそんな印象でしたが、自分が大人になって、母に祖母の話を聞
くうちに、より祖母を理解したいと思うようになりました。特に戦争を生き
抜いた話は、私の心を捉えました。
祖母は大正三年(1913年)、埼玉県吉川町の貧しい小作農家の家に生ま
れました。
結婚はおそらく20歳の頃。東京都江戸川区北小岩の理容店に嫁ぎました。
「農家以外の人なら誰でも良かった」と話していたそうです。
祖母が結婚して8年目、祖父が戦争に取られ、大陸で捕虜になり、シベリア
に抑留されました。働き手を失ったのですから、舅と姑・子ども三人を抱え、
その苦労は本当に大変だっただろうと想像できますが、しかし当時としては、
そんな境遇は珍しくなかったのかもしれません。
戦中は母が小さかったためか、母の記憶は戦後間もなくからの話が殆どです。
戦後小岩辺りにもいわゆる「赤線」があって、黒人の兵隊が当時”パンパン”と
呼ばれていた売春女性を買いに来ていたそうです。
祖母は生活を支えるため、やっとのことで手に入れたお米を炊き、薄い刺身を
のせてお寿司らしきものを作り、早朝に赤線の宿屋を訪ね、受付の見張りのお
ばさんに袖の下を渡して中に入れてもらい、一部屋一部屋「お寿司要りません
か?」と売り歩きます。
すると中からパンパンのお姉ちゃんが出て来て「お腹空いたわ。お寿司買って
頂戴な。」とねだったりして、結構買ってくれたそうです。
あとで祖母は「お寿司より私を買ってよ!」と、本当は心の中で叫んでいたよ
・・・と、母に打ち明けたそうです。
母はその頃6歳か7歳。白いお米で作ったお寿司を見ていると生唾が出て止ま
らなくて、喉から手が出るほど食べたかったねえ・・・と話していました。
その他にも、ある時大通りに爆弾が落とされたことがあり、とっさに祖母は記
録を残そうと思いつき、爆弾の落ちた穴のスケッチをしていたら、憲兵に「ス
パイ容疑」でつかまり、一晩帰宅できなかったことなども聞いたことがありま
す。
さて、シベリアに抑留されていた祖父が還って来たのは昭和26年(1951
年)。その「シベリア帰り」は、共産主義に洗脳されているとされていました。
玄関前に共産党の人が「お帰りなさい」と握手を求めて大勢来たそうです。普
通なら追い払うところだと思いますが、祖母は「お父さんの帰りを喜んでくれ
る人がいる」と、一口ずつ赤飯を配ってお礼をしたそうです。
でも、それからは近所中の差別に合い、子どもだった母はいじめられて随分つ
らい思いをしたようです。
大通りの向こう側からと子供たちが差別的な言葉を叫んだり、お客さんがぱっ
たり来なくなったり・・・。
子供だった母にはどうしていじめられるのか、よく分からなかったかもしれま
せん。
一方祖父は、不在だった8年の間に、家族の中の居場所が無くなり、孤独だっ
たようです。母は子供心にも、親しみを感じないけれど、ぽつんとしている父
をかわいそうに感じていた、と言います。帰国して15年、祖父は私が1歳の
時、脳溢血で亡くなりました。
祖母は50歳の頃、好きで出来なかった絵「俳画(色紙に俳句と挿絵を描く)」
を習い始めます。
勉強家で賢い人だったのでしょう。たった3年で俳画の先生になったそうです。
更に日本画も勉強して、数枚の絵を遺してくれました。
祖母の乳癌の快気祝いに家族で行った、静岡の宿の周りの茶畑に雨が降った様
子を「茶畑の どこまでつづく こぬか雨」と詠んだ俳句を記憶しています。
母と祖母が、色々あって数年間行き来が無かった間に、祖母は癌が再発してい
ました。
「もう永くない」と連絡を受けて、お見舞いに行きました。逞しかった祖母が、
驚くほど小さく弱々しくなっていて、胸が詰まりました。泣くまいと頑張って
も頑張っても、溢れる涙を抑えることが出来ませんでした。
それから間もなく、祖母は亡くなりました。
戦中戦後、多くの女性が同じような苦労を抱えて生きていたでしょう。まさに
「生き抜いた」と言えます。
祖母は母に言ったそうです。
「これだけは覚えておけ。これから先、どんなことがあっても戦争だけは反対
するんだぞ」
今の私には、到底足もとにも及ばない真の強さ。
時代がそうさせたことは間違いないのですが、話を聞くにつれ、心の奥深いと
ころが震えるのを感じます。
確かに過去のこと。でもそこから学ぶことは限りない気がします。


(2008年7月29日 記)