春近し・・・

先週の金曜日は、小学校のマラソン大会でした。

午前中からとても暖かくて、マラソンするにはちょっとキツい日だったかも

しれません。何しろ半袖でちょうど良いような陽気でしたから。


でも、辺りには春がたくさん・・・。

空にはヒバリがけたたましく鳴き、足下には”犬のフグリ”や”仏の座”が咲き、

土筆もほんのちょこっと顔を出していました。


来週あたりには、土筆を土ごと掘ってきて、小さな植木鉢に植え、結花の店

頭に置こうと思っています。お客様にも春が感じられますように♪



日本語は豊かだ

正直、この歳(現在45歳であります)になるまで、また結花に関わるまで、

日本語の豊かさについて考えてこなかったと思います。

なーんて、日本語の豊かさのまだほんのほんの一部しか、私は知りません。

日本語の豊かさは、四季の豊かさにも起因していると思いますが、それにし

ても色々な表現があるものです。

何でも、「花」によって散り方の表現が違ったりするんですって。今日、お

客様に教えていただいたのです。「散る」「こぼれる」「しおれる」など?

全く。私は基礎的な教養に欠けるので、どうも覚えが悪くてお恥ずかしいの

ですが・・・。


君がため 春の野にいでて 若菜摘む 我が衣でに 雪は降りつつ

光孝天皇


今日みたいにばかに暑すぎる日には詠むにはちょっと合わないかしら。

できれば花冷えの日に思い出したい一句。


雪とけて 村いっぱいの 子どもかな    小林一茶


待ちに待った春の喜びを表現しているのでしょうか。ほのぼのしていて

いい句だなぁ、と思います。


色の名前も、季節の名前も、日本語は素晴らしいし、また本当に美しい

文学的な表現がたくさんありますね。

そんな言葉の数々も、ご紹介しつつ、学んでいきたいな・・・と考えて

います。



ヒフ感覚を養え

昨日、建築関係お詳しいお客様がお見えになりました。

父の仲間の建築家のこともよくご存知でした。

そんな中、「現代の日本人は”物作り”をしなくなった」という話になりました。

例えば、一生を過ごす住宅は、今やまるで車をショールームに行って購入するか

のように住宅展示場に行って買う。勿論、ある程度の設計はすると思うが、そこ

にはおそらく職人の手仕事は無いだろう。

その新建材で固められた空間で過ごした子どもたちには、”ホンモノの素材の空間”

というものが理解出来ないだろう。

特に”空間”というものは「ヒフ感覚」がとても大切。

殆どの子どもたちが、ホンモノに触れずに育つ中、日本の「手仕事」の世界を将

来残していかれるのだろうか?

そんな主旨のお話でした。


結花は明治8年築の建物で、使われている木材は正真正銘のホンモノ。

本当は子どもたちにこそ触れてほしいという気持ちです。

近隣の小学校の「町探検」などの課外授業に結花も加えてもらって、日本の建築

文化を体感してほしいのですが・・・。

小学校って、意外と壁があって難しいところがあるみたいです。


それなら保育園や幼稚園に声をかけてみようかしら。





「孤独」という病(やまい)

皆さんは、例えば「mixi」や「facebook」などのコミュニケーションサイトを

利用していますか?

松戸市内にも「ラブマツ」というコミュニケーションサイトがあります。

私も、一応それらに加入していています

しかし正直、会ったことがない人とは友達になるという気にならず、ですので

いわゆる”マイミク”などはほんのわずかですが・・・。


それにしても「公開日記」とは、面白い発想ですよね。

私も以前は熱心に書き込みをしていました。


でも、どうして公開するのでしょうか。公開する心理とは何なのでしょうか。

どうして、多くの人が知らない誰かとマイミクなるものになるのでしょう。


私は思うのです。

人はやはり、人と繋がっていたいのだ、と。

公開した日記に対して、誰かが反応してくれる。賛成してくれる。同感してく

れる。やはりそんなことを期待しているから、日記を公開しているのだ、と。


でも、ある時からどうしてか何となくそれがしっくり来なくなり、書くのを止

めてしまったのです。

理由はよくわかりませんが、基本は人間同士、肉声が必要だと感じたからかも

しれません。

メールもそうですが、どんなに沢山のメールをやり取りしても、満足出来るこ

とはありません。どうしてか、何か足りないのです。


ところで、最近問題の”ネット依存”。

子どもを育てることも忘れてネットゲームにハマる母親。携帯電話を手にして

いないと仕事もてにつかないほどだというOL。

女性にネット依存が多いのは何故なのでしょう。


私の場合は、子育て中にとても孤独を感じました。

夫は仕事の悩みで時間的にも物理的にも余裕がなく、私は子どもを保育園に送

迎しながらパートをかけ持ち。肉体的にもかなりキツいものがありました。

保育園の保護者とは送り迎えの時だけのおつきあいだったし、時間的にも余裕

がない中、どこかに出向いて居場所を探そうという思考さえ働かず。


とても孤独でした。

子どもにもイライラして爆発したりして。

その時に5歳(6歳になっていたかもしれません)の娘からもらった手紙は・・・

今も大切に取っておいてあります。

今思い出しても切なくて、涙が出るような手紙です。


あの時の自分を思うと、現代の病の多くが「孤独」を原因とするものなのではな

いかと思ったりするのです。

人は、やはり人と関わりを持っていく必要が、絶対にある。そう思います。

実際に人と関わることは、煩わしさがつきまとうものですが、それを受容しつつ、

人は人と関わっていかなければならない生き物なのではないでしょうか。


結花は、そんな社会にどんな発信ができるのでしょう。

何らかの「結」をこの矢切に築きたい。

人との”縁”が希薄なこの社会において、結花だけは暖かく咲いていたい。

結花はそんな存在でいたいのです。



雪やこんこん・・・

今夜から雪になるかも?しれないとのことですね。

子どもの頃はあんなに雪が待ち遠しくてワクワクしたのに、どうして大人になると憂鬱に

なってしまうのでしょう。

「あ〜、雪掻きしなくちゃ」とか「寒いなあ」とか、負担ばかり気になってしまう。

結花の前も、ちょっと道路の長さがあるので「自宅も結花も雪掻きか〜!!」と全くもっ

て喜べません。


そのてん、子どもはいいですね〜。無邪気に遊ぶことしか頭にない。

小3の息子なんて、雪が降ったら朝から早起きして一人で何度も雪遊びに行ったりします。

楽しくて楽しくて仕方がないみたい。


そこで、ちょっと思い出したのがこれ。


遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえ

こそ動がるれ。

舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に

美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬ

ぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見え給ふ。

平安時代末期 『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』より


梁塵秘抄を知らなくても、耳にしたことがあるのではないでしょうか(私も知らなかった

ですけど)。

遊びをせんとやうまれけむ・・・・

表現、観察眼、すべてが素晴らしいです。本来子どもって、そういう存在なのですよね。


それからもう一つ。


太郎を眠らせ、太郎の家根に雪ふりつむ

次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ     三好達治


まさしく日本の原風景が思い浮かぶ詩ですが、この詩を読んで、日本の原風景を思い浮か

べる子どもたちがどれくらいいるのか・・・

そう思うと、少し寂しく思えたりします。